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多文化主義

多文化主義(マルチカルチュラリズム、英:multiculturalism)とは、異なる文化を持つ集団が存在する社会において、それぞれの集団が「対等な立場で」扱われるべきだという考え方または政策である。

フランス革命をきっかけとして成立した国民国家という国家のあり方は、民族自決という考え方を前提としていた。すなわちある民族の自決権を実現する為に、その民族がある一定の領域を占有し、その領域内において自民族の個々のメンバーの自由や平等を保障するという手法である。しかし、こうした手法では、その国家において主流派となるエスニック・グループ以外はマイノリティとして種々の抑圧・差別を経験することになる。何故ならば、民族という概念そのものがその構成メンバーの主観によることが多い故に、民族の一体性を確保するためにはどうしても国民国家内部における言語や文化を統合していかざるを得ないし、そうした場合、主流派以外のエスニック・グループはそれぞれの言語や伝統文化を放棄してアイデンティティを喪失するか、あるいはそれらを保持するかわりに国民国家内部における不利益を甘受するかという選択を迫られるからである[1]。

そこで、こうした単一文化主義 (monoculturalism) を前提とする国民国家を乗り越えるための方策の一つとして考案されたのが、多文化主義である。多文化主義は1970年代にカナダ、オーストラリアで政策に取り入れられ始め、その後、イギリスやスウェーデン、フランス、アメリカなどでも程度の差はあるものの、多文化主義の考え方が導入されるようになった[2]。

しかしながら、その後オランダやベルギーが多文化主義的な政策から単一文化主義的な政策に回帰し、ドイツ、イギリスでも同様の議論が起きている。一方、カナダでは、1986年に雇用均等法、1988年に多文化主義法 (Official Multiculturalism Act) を制定するなど、現在まで国の基本方針として維持されている。

多文化主義は、1970年代から、数カ国で政策に適用されてきた。国によって、その理由はさまざまである。

カナダにおける多文化主義の考え方が初めて明確に述べられたのは1964年、進歩保守党の上院議員ポール・ユージック (Paul Yuzyk) の上院議会における初演説の中であった。また、主にケベック州のみに集中しているフランス語話者の不満に応える形で1963年、政府はカナダ王立委員会を開き、二言語及び二文化問題 (Royal Commission on Bilingualism and Biculturalism) についての検討を重ねた。この動きを受けて1971年に多文化主義が正式に政策として採用された。王立委員会は報告書の中で、「カナダ政府はカナダが二言語及び二文化によって構成される社会であることを認識し、この性格を維持するための政策を実施すべきである」と提唱した。

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その後、この二文化主義 (Biculturalism) は多方面からの批判に晒されることになった。確かにインドでは既に多文化主義が採り入れられていたが、西洋諸国では前例がなく、カナダが初めて採用することになったためである。

進歩保守党の党首ジョン・ディーフェンベーカー (John Diefenbaker) は、多文化主義がカナダ固有の文化や伝統を守っていこうとする自身の姿勢と相反するものとみなしていた。また、当時はケベック・ナショナリズム (Quebec nationalism) に惹かれる若いフランス語話者が増え続けていたが、二文化主義はこうした若者たちを満足させるものでもなかった。

英語やフランス語といった言語圏を問わず、多くのカナダ人が二ヶ国語を併用する二文化主義の新政策を嫌っていたが、最大の反対勢力は英語系でもフランス語系でもなく、いわゆる「第三勢力」と呼ばれた異文化を持つ少数派のカナダ人であった。カナダ西部の州におけるフランス語話者の人口は、その他の言語話者(北京語といった中国系、ヒンドゥー語といったインド系、日本語といった東アジア系など)と比べると少数であり、二文化主義が現実に即しているとは言えなかった。こういった少数派の便宜を図るため、政策の基本方針は「二言語二文化主義」から「二言語多文化主義」へと移った。

自由党政権のピエール・トルドーは1971年10月8日、下院にて「二言語の骨格に収まる多文化主義政策実施の声明」を発表。ブライアン・マルルーニー率いる進歩保守党政権が1998年7月21日に勅許を受けて可決した多文化主義に関する決議書 (Official Multiculturalism Act) の先駆けとなった。

実務レベルでは、連邦政府によって各少数民族に対する文化保護を目的とした基金の交付が開始された。基金の主な支援先としては、民族舞踊の競技会や各民族のための交流施設の建造などが挙げられる。これらはトルドーが掲げた「公平な社会」の実現を目的としたものというより、単に選挙の得票目当てであったのではないかと言う批判を呼んでいる。ブライアン・マルルーニー率いる進歩保守党が1984年の選挙で勝利した後にも、多文化主義政策が覆ることはなかった。ただし、マルルーニー政権発足以前から進歩保守党の党員らは、政権が党是であるカナダ固有の文化と伝統を保持する姿勢と乖離していることを批判していた。特にトリニダード・トバゴ出身の知識人ニール・ビスーンダス (Neil Bissoondath) は、多文化主義を政府の基本方針とすることに反対している[3]。

歴代のカナダ政府は政治信条もしくは公平性の観点から、多文化主義が「社会的あるいは文化的な障壁を打ち破り、結果として国益に資するものだ」と主張し続けており、「国家をまとまりのあるものにしていく上では政治的に偏った思想ではないのか」と疑問視する立場から距離を置いてきた。

カナダ国民の多くは、多文化主義が国民から「カナダ人らしさ」を奪い、その気になればあらゆる集団が各々の独自性を根拠に異なる(むしろ特別な)待遇を要求しかねないという危険性を認める一方で、政策自体は人々を一つの共通した価値観で結び付けており、結果として国家への帰属意識を高めているという見方を支持している。しかしながら、同政策に対しては批判もある。2007年に発表されたトロント大学の調査によると、最近の非白人系移民の多くは、自らを「カナダ人である」とはみなしていないという[4]。

カナダは1982年にイギリスから法的な面で完全に独立を果たしたが、その際に制定されたカナダの自主憲法 (Canada Act 1982) にある『カナダにおける権利と自由の憲章 (Canadian Charter of Rights and Freedoms) 』[5] 第27節の中に、多文化主義の政策方針が追加されることになった。

アメリカの歴史学者 ダイアン・ラヴィッチ (Diane Ravitch) は、アメリカにおける「人種のるつぼ」とカナダの「文化のモザイク」について論じ、どちらとも多文化主義ではあるが前者は「共存的」、後者は「自治的」であると区別した。ラヴィッチによると、左記の二つの多文化主義には次のような相違点があるという。まず共存的多文化主義は、各自の文化やサブカルチャーが社会全体の文化と渾然一体となり、固有で有益な貢献をしている(共存している)と捉える。その一方で自治的多文化主義は、むしろ文化間の差異を維持する志向性があるのだという。

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2009年04月28日 07:16に投稿されたエントリーのページです。

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